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1968年 メキシコ国立交響楽団定期演奏会(金曜・日曜) 指揮:カルロス・チャヴェス
独奏:黒沼ユリ子 国立芸術宮殿玄関のコンサート案内の前 (土曜・D. エリントン)

『わが心のメキシコ』に寄せて

音楽評論家  萩谷由喜子

 黒沼ユリ子さんの著書『アジタート・マ・ノン・トロッポ』(1978年、未来社)は、私の愛読書の一冊となっている。 16歳にして日本音楽コンクールに優勝、18歳でチェコに単身留学、プラハの芸術アカデミーを首席卒業、その後メキシコで活躍中の彼女が、当時のソヴィエト連邦をはじめとする東ヨ--ロッバ諸国での演奏旅行の経験や、病床にハチャトゥリアンを見舞って、彼のヴァイオリン協奏曲を聴いてもらった話、海抜4000メートルのボリビアの首都ラパスでリサイタルを開き、「どこにでも音楽好きな人はいる」と実感されたことなどが綴られたこのエッセイは興味深い話の宝庫で、しかも、鋭い洞察力が息づいていて、読むたびに視野の広がる思いがする。一方、メキシコの歴史、民族、地理、文化、音楽に関する記述には、この国への深い愛が滲んでいて胸を打たれる。
 黒沼さんはその後2012年までメキシコで演奏、教育活動に邁進されたのち2014年に帰国、現在は外房の御宿を拠点に、音楽活動を継続されている。 そしてこのほど、本アルバムが日本でリリースされるが、これは2003年にメキシコで録音、「メキシコ音楽 - 二つの世紀の間で」としてメキシコで発売されていた。 収録されているのは、19世紀半ばから20世紀前半生まれのメキシコの作曲家7人の小品、あるいは組曲で、ポンセを除くと日本人には馴染みのない作曲家がほとんどだ。 だが、心配には及ばない。 これも黒沼さんの文章から知ったのだが、メキシコにヨーロッパ・クラシック音楽が入ったのはスペインの征服に伴う16世紀のことなので、明治維新後の短期間に洋楽普及に努めた日本よりもはるかに歴史が長い。 もともと、歌や踊りを好み、リズム感に優れていたメキシコの人々は、長い時間をかけて西洋クラシックを自分たちの音楽的アイデンティティと自然に融合させて、無理のない西洋音楽の旋法、語法による、彼らならではのメキシコのクラシック音楽を生み出した。 だから、ここに聴くメキシコの作曲家たちの作品は、リズムの際立つ曲からショパンを思わせる音楽の抒情詩まで、どれもすんなりと耳に馴染む。
 そして何よりも、これらの作品を彼女自身の言葉として奏でる黒沼さんのぬくもりある音色が、ピアノのオレホフスキとの息のあった対話とあいまって、珠玉の諸作を、より親しみ深いものとしている。

[ 2020年11月17日 ]

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    メキシコ人と音楽

    黒沼 ユリ子

     日本とメキシコでは歴史的に大いに異なった歩みをしながら現代に至りましたが、これまで日本ではメキシコのことや、メキシコでの音楽の歴史などについてが、あまりにも知られていなかったように思えるの で、この機会に私の知っている範囲内でですが、少しお話しましょう。

    メキシコ独特の楽器

     メキシコでは3000年ほども昔からの音楽が、いまだに地方のあちこちの町や村で生きた音楽として、演奏されながら人々の間に存在し続けています。そして勿論、その音楽と一緒に楽しく踊られてもいます。 その理由は、メキシコ人にとって音楽が「生きる上で空気や食べ物と同じくらいに不可欠なもの」と、 昔から考えられていたからなのでしょう。 その音楽の演奏には声と共に、必ず楽器群も必要になりますが、それにはさまざまな自然の恵みを上手に生まれ変わらせ、活用して来たのです。その一つの良い例が、マラカスです。 マラカスという楽器は、椰子科の「マラカ」という植物の実を乾燥させた後、中の種がぶつかり合って出る音によって楽器に変身させられたモノが、そもそものオリジナルなのです。今日では、木やプラスティック でも作られている様ですが・・・
    そして、さらにもっと小さな木の実でも、数珠つなぎにしてから、腕や足首に巻いて身体を動かせば、楽器になってくれますし、また粘土でも、素焼きにした器に皮で蓋をして、上から棒で叩けば鼓のようによく響き、自然に身体が動き出して、人を踊りたくさせてしまう楽器になることなどは、メキシコばかりではなく、人類が太古の時代から知っていたことなのでしょう。
     ところで、メキシコにはもう一つ「パロ・デ・ユヴィア」(Palo de lluvia 雨の棒)と呼ばれている、大変ユニークな楽器もあります。それは、長さや太さの異なる竹の棒の、節にある仕切りに穴を開けて筒状にして、その中に、熱帯地方に住む大きな蟻が地面に穴を掘る時に、口の中で土を唾液でこねて丸めて作る硬い玉コロを入れ、その筒を上下左右に角度と速度を変えながら動かし、玉コロが流れ落ちる速さを変えることによって生まれる、変化に富んだ音を聴きながら楽しむ、という楽器なのです。大嵐の時の音でしたら、場所はどこでも問題なしですが、霧雨のか弱い音から、変化に飛んだ様ざまな雨の音を十分に享受する ためには、真の静寂も必要になるので、星空の夜などに屋外の自然の中で聴いて楽しむ、そんな歓びのために考え出された楽器なのかもしれないと想像してしまいます。ですからこれは通常、私たちが持っている打楽器に対してのイメージとは全く異なる楽器、とも言えるのではないでしょうか?

     当然ながら、素焼きの笛も沢山作られて来ました。2~3本の縦笛を横につなげておいて、一音だけを選んで吹いたり、重音にしたり、また、動物の頭付きの縦笛とか、人形や小動物の形をした笛なども色いろありますが、それらの中でも特筆に値するのが「フラウタ・デ・アグア」(Flauta de agua 水のフ リュート)と呼ばれている笛で、大変ユニークなのです。何故って、フリュートと呼ばれながら、この笛には 空気を吹き込む口がないのですから・・・。 その代わりに、筒の一方の端にカップがあり、それに半分ほど水を入れ、少しずつ傾けることによって筒に水と空気が送り込まれるので、それで反対側の先にある笛が鳴る、という仕掛けになっているからです。小鳥の頭の形をした可愛い鳴き声を模す笛もありますが、何と言っても「ヨローナ」(Llorona 泣き女)と呼ばれている、女性の頭の形をした笛が最もユニークです。カップから水と空気が筒に送られると、両眼から涙をポタポタと落としながら、何とも悲しそうで、切ない泣き声が聞こえてくるので、それを見ながら聴き入る誰もが魅了されてしまいます。これはメキシコの人達が音に対して持つ、繊細な感覚の一つの表れではないでしょうか?

    • マラカス
    • 素焼きの笛(オカリナ)
    • 小鳥(水のフリュート)
    • 素焼きの笛(オカリナ)
    • 素焼きの笛(オカリナ)
    • 泣き女(水のフリュート)

    メキシコ人とスペインとの出会い

      メキシコ人が西洋音楽を耳にしはじめたのは、16世紀の半ば頃からのことでしたが、それはスペイン軍による「アステカ帝国」の征服後すぐから行われた「キリスト教への強制的な改宗」によってでした。信者にさせられた先住民の人びとは、ミサでの音楽を通しながら、長い年月をかけて「ド・レ・ミ」の西洋音階に慣らされて行った訳ですが、それは日本での文明開化が謳われ出した明治時代になってから、急遽取り入れられ始めた軍楽隊の演奏する曲や、学校唱歌などを通しての歴史とは、大いに異なるわけです。つまり、西洋音階との接触の始まりが、メキシコと日本の間には約300年という長い時間の差があったことになる訳なのです。
     今からおよそ500年前の1519年、スペイン軍の武将エルナン・コルテスは、部下の従軍兵士たちを引き連れて大西洋側の海岸から未知の大地に上陸しました。それ以前には、ジャマイカ島とキューバ島が、すでにスペインの他の武将達によって制覇されていましたが、北アメリカ大陸へは、これが最初の第一歩だったのです。この ”晴天の霹靂(へきれき)” であったスペイン兵士らの上陸によって、メキシコ人達はその後「決して後戻りの出来ない道」を歩まざるを得ない運命と出会ってしまった、と言えるでしょう。 
     鉄の鎧と兜で完全武装をした見ず知らずの ”異人” を目にして驚愕し、抵抗した先住民は、情け容赦なくスペイン軍によって殺戮されましたが、逆に、奇異の目で彼らを眺めながらも、反抗はしなかった先住民は、格好な荷役として彼らの重い装備を担がされながら、道案内人としても活用されたのです。彼らは一体となって、噂でのみ耳にしていた「幻のアステカ帝国」の首都を目ざして大陸の奥へ、高地へと向って進軍を続けました。 そして、今日では「パソ・デ・コルテス」(Paso de Cortes コルテスの通り道)と名付けられている標高4000メートルほどの丘の上にまでたどり着いた時、全員が自分の眼を疑わざるを得ない体験をさせられたのです。何とそこからは、それまで誰ひとり見たことのなかった大都会が、遥か遠くの下界に霞みながら姿を現したのですから・・・。
     まさにそれが、未知の国「アステカ帝国」の首都「テノチティトラン」(今日のメキシコ市)の姿だったのでした。この「テノチティトラン」との初対面が、スペインの兵士たちをどんなに驚嘆させたかの様子は、記録係の従軍兵士、ベルナール・ディアス・デル・カスティーヨによって「真実なる征服の歴史」という書物の中で詳細に語られ、書き残こされています。当時のヨーロッパでは最大の都市であったロンドンの2倍、セヴィリアの3倍もの人口を持っていたこの都会は、大きな湖の中央に浮かぶ島で、碁盤の目の様な都市計画も整った立派な姿を見せていたのですから・・・。 

     その中央には巨大な広場があり、それは今日のメキシコ市にある通称「ソカロ」と呼ばれている「憲法広場」 の、さらに4~5倍もの広さだったと伝えられています。
     その広場を中心にして建ち並ぶ石造りの宮殿や、彫刻の施された高いピラミッド型をした神殿などは、皇帝とその一族や神官たちによって規律正しく、厳しく司られ、整然と機能していました。そこでは宗教哲学、天文学、建築や美術などを独自の思想を基盤にして発展させ、厳然たる階級社会が形成されていたのです。無論、「太陽」を信仰する宗教儀式にも欠くことのできない、様ざまな楽器の奏者たちの階層も存在していたでしょうし、その音楽家たちが奏でていた音楽が、当然ながらヨーロッパの音楽とは全く似ても似つかないモノであり、スペイン人の耳にはとてつもなく奇異に聞こえたであろうことも、想像に難くありません。
     がしかし、それはヨーロッパ人がそれまで夢想もできなかった、彼らの文化とは完全に異質ではあっても、非常に高度な文明を築いた人びとによって創造されていた音楽であったことだけは、確かな事実であったのです。 そして偶然にもこの時代が「未来のある日、東方から白い文化の神がやって来るだろう」という「アステカ神話」に絵文字で書かれてあった説の暦と、ちょうど重なっていたため、白人のスペイン兵たちはその「神話」のお陰で、「アステカ帝国」の皇帝モクテスーマ本人からの歓迎さえ受けながら、無血で首都「テノチティトラン」への入城も出来てしまったのでした。ところがその数日後に、実は、スペイン軍の目的が「金と銀の収奪」のみでしか無かったことが発覚してしまったため、彼らはアステカ軍による猛反撃を受けてしまい、一旦は、生命からがら敗走せざるを得なくなってしまったのです。この大失敗により、スペイン軍はその後を船の建造に集中し、そしていよいよ3年後の1521年には、「アステカ帝国」の首都を水上から猛攻撃して、遂に完全なる武力征服を成功させたのでした。でもそれは、アステカの人びとに、何よりも過酷な運命を無言で受け入れさせ、己の文明を過去の闇の中に葬らざるを得なくさせ、見ず知らずの西洋文化を無条件で受け入れざるを得なくさせ、他に選択の余地を皆無にさせられても、その中で生き続けなくてはならないという過酷な状況へと陥れたのです。他方スペイン王家は、早速「アステカ帝国」を「ヌエヴァ・エスパーニャ」(新スペイン)と改名して自分の植民地とし、即・スペイン人とスペイン文化の移入を始めたのでした。当然それには私たちが今日、享受している西洋音楽も含まれていたという訳ですが・・・。
     では音楽に絞って展望してみましょう。征服直後からキリスト教のカソリック信者に改宗させられたインディヘナ(先住民)の中からは、早くも16世紀のうちに、作曲家達も生まれ始めていたのです。それが判明したのは、モテットなどの宗教音楽の歌詞にナウア語 (アステカ人の言語)を使った楽譜が、昔の教会や、修道院などの書庫から発見されているからなのです。最近ではそれらが再演されたり、CDにも録音されています。スペインの副王領、つまり、スペイン王から選ばれた副王によって統治されていたスペインの領土としてのメキシコへは、その後、音楽や美術のみならず、スペインやヨーロッパのありとあらゆる文化の移植が20世紀の初頭まで続けられていたと言えるでしょう。 18世紀末のフランス革命やアメリカの独立戦争の影響も受けて、1810年にはメキシコでも、スペインからの独立戦争が勃発しました。10年余の戦いを経て一旦は「メキシコ共和国」として独立国の宣言もしましたが、その後にはアメリカやフランスからの侵略も受けたので、政治的には激動の時代となってしまいました。が他方、市民生活においては、日本での明治維新よりもずっと以前に、すでにフランスの名ヴァイオリニストで作曲家のヴュータンや、「交響曲第9番」がベートーヴェン自身の指揮で初演された時のソプラノ歌手だったゾンタークなども、メキシコまで演奏旅行に来ていました。また当時すでにヨーロッパに留学してピアノや作曲を学び、その後は海外で演奏活動もしていたメキシコ人演奏家たちが何人もいたことなどは、日本人にとっては「寝耳に水」ではないでしょうか? また、メキシコの作曲家たちによるピアノ曲の新作などが出版されれば、数日で何千部もが売り切れてしまったとか、ワルツやポルカ、マズルカなども大流行して、都会のみではなく、田舎の農民のフィエスタ(お祭り)でも老若男女に大人気で踊られていた記録も残されています。しかもそれは、すでに伝統ともなっていて、今日のメキシコの田舎でも普通に踊られているのです。

     メキシコと西洋音楽の近さについての一例に、1855年(安政2年)生まれの作曲家、エルネスト・エロルドゥイを挙て見ますと、幼い頃からピアノの天才と呼ばれていた彼は、ドイツに留学して作曲を当時ヨーロッパの楽壇の最前線で活躍していたロバート・シューマンとアントン・ルービンシュタインに学び、音楽理論はカール・ライネッケに師事、ピアノはなんとクララ・シューマン本人からレッスンを受けていた、と伝えられているのです。彼は1892年にはメキシコに帰国して各地でピアノリサイタルを開きながら、自作も次つぎと発表して大成功を収めました。明治維新の2年前の1866年に創設されたコンセルヴァトーリオ・ナシオナル(国立音楽学校)の教授としても、若い作曲家たちに莫大な影響も与え、その後のメキシコ近代音楽発展の中心的な存在となったのです。
     そして20世紀に入ってからはマヌエル・マリア・ポンセほか、シルヴェストレ・レヴエルタスやカルロス・チャヴェスなどの作曲家達が国際的にも高く評価され始め、彼らが重要な柱となって「国立交響楽団」が創設され、定期演奏会が習慣として開かれるようになったり、外国人の客演指揮者やソリストたちの来訪も当り前なこととなって、メキシコの音楽環境は、ますます豊かなものになって来たのです。

     明治37年にあたる1904年には、今日も大活躍している国立「芸術宮殿」の礎石が早くも置かれたのでしたが、それに続く建設は、その後に勃発した「メキシコ革命」によって大幅に中断させられ、あの総外壁がメキシコ原産の白い大理石によって覆われている美しい「芸術宮殿」の ”こけら落とし” は、何と1934年(昭和9年)まで待たされることになってしまいました。しかし、メキシコの歴史の中で最も重要なページの一つの「メキシコ革命」が原因だったのですから、この遅れは赦されざるを得ないでしょう。 因みに、東京文化会館の開館は1961年(昭和36年)だったのです。
     20年ほど予定が遅れながらも、オープンしてからのこの「芸術宮殿」は、メキシコでの芸術文化活動の生きた心臓となり、「国立芸術研究所」という名の、実質は「芸術省」と同レベルの政府機関が設けられてこの「芸術宮殿」の中にその本部を構え、今日まで芸術文化活動の公的な中心になり発展させているのです。
      またこの宮殿は「芸術宮殿」の名が示すように、「音楽のため」のみにあるのではなく、美術館でもあるのです。この建物の内部の壁に直接、筆で描かれたダヴィッド・アルファロ・シケイロスによる有名な作品「新しいデモクラシー」と名付けられた大壁画のほか、名実ともに世界にメキシコを代表する画家たちである、ホセ・クレメンテ・オロスコ、ディエゴ・リヴェラ、ルフィーノ・タマヨらの、ここから何処へも移動不可能な巨大な作品が、ここの2階に永久展示されているため、国際的にも超重要な美術館の一つに数えられています。
      そして大ホールと呼ばれているオペラハウスのステージには、アメリカの「ティファニー」が制作した素晴らしいクリスタル・カーテンがありますが、これは世界で唯一、ここでのみ見ることが可能な芸術作品なので、ユネスコによって「人類の遺産」の一つに登録されています。この緞帳には、メキシコの象徴的な景色となっている、二つの標高5400m余の火山「ポポカテペトル」と「イクスタシワトル」が向かいあう雄大な風景が、数百万枚のクリスタルの破片を使って、水彩原画そのものの超巨大な絵画になって、見事に再現されています。毎回の公演が始まるまでの時間にはライトが当てられて、思う存分に鑑賞できるようになっています。そして開演時刻が迫ってくるにつれてその明かりが夕陽のようになり、徐々に暗くなり、遂に真っ暗になると、音もなく緞帳は天井に吸い上げられてステージが現れ、開演となるのです。

     メキシコは第2次世界大戦の終盤まで巻き込まれていなかったので、あの戦争のさ中にもコンサートライフがそれまでどうりに継続していました。そのため、反戦派のヨーロッパやアメリカのアーティストたちや、特にナチズムから逃れたユダヤ系のアーティストたちが喜んで来訪し、この「芸術宮殿」のステージで大活躍を続けていました。指揮者のトスカニーニ、エーリッヒ・クライバー、若かりし頃のカラヤンからソプラノのマリア・カラスやテノールのディ・ステファノ、それにピアノのコルトーやバックハウス、ヴァイオリンのハイフェッツやメニューイン、ルジェーロ・リッチなどなど、著名なアーティストたちのコンサートが普通に開かれていたのです。
      すでに19世紀に建立されていたヨーロッパのオペラハウスと全く同じスタイルの「メキシコ市立劇場」で始められていたオペラ公演も、一年を前半・後半に分けたオペラシーズンを設定し、古典から現代までのオペラの代表作をレパートリーとして、一年を通して繰り返し公演が続けられていたり、今日ではそれが国立「芸術宮殿」の大ステージでも毎年オペラファンに提供されています。オペラ公演のためには「オペラ交響楽団」と名づけられた専門のオーケストラがあり、伴奏をしていますが、コンサートのためには「国立交響楽団」のほかに「メキシコシティー・フィルハーモニー」、国立自治大学が市民の文化生活のために雇っているプロフェッショナルな「国立自治大学フィルハーモニー」、それに「カルロス・チャヴェス交響楽団」をはじめ、首都に隣接するメキシコ州が持つ「メキシコ州立オーケストラ」も、必ずメキシコシティー内のいろいろなホールで毎週の定期演奏会を開いています。つまりオーケストラの定期演奏会が日本でのように月1回なのではなく、毎週末に
    4ヶ所でほぼ同時に、指揮者も常任指揮者のみではなく世界中から客演指揮者も招き、独奏者もプログラムも変化に富ませて、夜と昼に提供されているのです。この日曜日のマチネー・コンサートには8歳以上の子供連れの家族が多く来場しますが、この習慣こそが、年々増え続けるコンサートの聴衆の数の源なのです。なぜなら、子供の頃から生の演奏を、等身大のアーティスト達を眼の前にして聴くチャンスを与えられているからです。プログラムの内容によって、異なるオーケストラを選ぶことができ、入場料も一般券の他に必ず、学生割引券と子供券があるのです。無論、各オーケストラには定期会員も大勢いますが・・・。この他にも、いくつもの室内合奏団や合唱団も活躍していますし、リサイタルホールも各大ホールの同じ建物の中には、必ず隣設してあるので、頻繁に開かれています。
     メキシコには国際的にも高い評価を得ている、いわゆるポピュラー音楽の分野にも、著名な歌手や楽団が知られていますが、ハリウッド映画などで有名になったテーマソングなどの多くが、実は、メキシコの作曲家達による歌であることは、意外に日本ではあまり知られていないようです。それはハリウッドが隠しているのか、メキシコ人が「自慢下手」で「自己宣伝に興味の無い人種」であるのか、私には不明ですが、世界中で流行していたり、アメリカ人歌手が歌っていれば、アメリカの作曲家の作品であると信じて疑わないような日本人が多くみられないでしょうか? それが伝統的に日本人の無頓着さから来ているのか、または無神経によるものなのか、私には分かりませんが、もしあの「上を向いて歩こう」を「スキヤキ・ソング」として売り出したアメリカが、「アメリカ人の作曲家の歌」だと外国人に思わせているのを知ったら、あなたは一体どんな顔をされるでしょうか? 見せて頂きたいモノですねぇ・・・。(笑) 

    作曲者たちの紹介(プログラム順)

    黒沼ユリ子

    このCDには、メキシコの人びとがメロディーに託す、あたかも人間の気持ちの集大成のような作品を集めました。どの作品からも人生の様ざまな場面での揺れ動く気持ちが聴かれますがそれは故郷を想う心から、祖国への愛をまで表現するパワーが音楽にはある事を、メキシコの作曲家たちが無意識のうちにも識って、感じ取っているからなのではないでしょうか? 19世紀から20世紀の間に、以下の7人の作曲家たちが創造した作品を、楽譜からではなく演奏を通して聴いて戴ける事を、大変嬉しく思っている私です。

    Silvestre Revueltas シルヴェストレ・レヴエルタス(1899~1940)

     日本でも最近では「ジルベスター」と聞けば「大晦日」のことと理解する人が増えていますが、 スペイン語ではそれが Silvestre となります。 まさにこのレヴエルタスは「大晦日」と言っても何と1899年の最後の日に生まれたと言う訳です。彼は後に著名な画家や作家になった芸術家たちが兄弟にいる家庭で育ちました。レヴエルタスは今日、メキシコの20世紀に残された最も代表的な作品群の作曲家と位置付けられていますが、特に1930年代の優れたメキシコ映画への音楽が当初から高い評価を受けていたので、本人によって組曲にも編曲されており、彼の数々の映画音楽をコンサートホールでも聴くことも出来る珍しいケースとなっています。同年生まれの作曲家、カルロス・チャヴェス作の「H・P」や「シンフォニア・インディア」のような土着的なメキシコ色ではなく、ここで演奏しているヴァイオリンとピアノのための「3つの小品」には、アイロニー(皮肉)も込めて、あたかも不条理な現実を直視して覚える怒りの感情のような「激しさ」、そして、普遍的な人間の原点を通して訴えかける「心の優しさ」などなどが交錯し、レヴエルタスの音楽の特徴的な斬新さが表われています。自身がヴァイオリニストであったことも十全に活用されており、1932年作のこの「3つの小品」を今も全く”古めかしく”なく、私たちの耳にも新鮮な音楽として届けらている事を、果たして作曲者本人はほんの一寸でも予測していたでしょうか? メキシコの20世紀のヴァイオリン曲のレパートリーに、この曲が不可欠であることに反論できる人は決して見つけられないでしょう。第2曲目の、最初から最後まで続くピアノによる同じ3つの音の上を飛翔する静かな「語り」の、何と美しい事・・・絶品ではないでしょうか?

    Manuel M. Ponce マヌエル・マリア・ポンセ(1882~1948)

     ポンセは少年時代から、ずば抜けた音楽的才能を示し、彼が8歳の時の作品も残されているくらいです。ピアノの演奏はもとよりオルガニストとしても、16歳で教会の職を与えられたほどでした。20代でイタリアとドイツに留学し、後にはパリでポール・デュカスにも師事して、ヨーロッパの当時最先端の作曲技法も身につけましたが、帰国してからは母国の民族音楽に自分のルーツを見出しました。がそれは単なる民衆音楽の模倣ではなく、高度に洗練され、芸術性に富んだ創作能力によって、国際性、普遍性を備え持つ彼独自の見事な作風に確立されたのです。あたかも「美しいメロディーが涸れることなく湧き出る泉のようだ」と、周囲の人びとから羨望の目で見られるほど、誰の胸の奥にも響くポンセの音楽は、交響作品からピアノのための小品に至るまで、聴く人すべてに心の奥深いところで共感を与えてしまう音楽とも言えるのではないでしょうか?ここで演奏している「青春」と「ガボット」も一度それらを耳にしたら忘れることが難しく、後のある日に、自分も自然にこのメロディーを口ずさんで唄っていることを発見して驚かれる方も多いかも知れません。メキシコのコンセルヴァトーリオ(国立音楽学校)の教授としても多くの後輩の指導にあたり、また「国立交響楽団」の創設者としても、指揮者でもあったポンセは、名実共に20世紀のメキシコの楽壇の大黒柱として最後まで活躍した大作曲家でした。 彼の歌曲「Estrellita」(小さな星)があまりにも世界的に有名になってしまったため、他の交響作品や室内楽曲、歌曲やピアノ曲などなどがメキシコの外ではあまり演奏されていないのは、いかにも残念なことと言えましょう。

    Manuel Enríquez マヌエル・エンリッケス(1926~1994)

     1962年に初めてメキシコシティーの土を踏んだ私に、最初に紹介された作曲家がエンリッ ケスでしたが、互いにヴァイオリニスト同士であることから、すぐに親しい友人となりました。彼はメキシコ第2の都会であるグアダラハラ出身でしたが、若いうちから飛び抜けた音楽的才能を認められ、周囲の人びとがメキシコシティーに彼を送り込んだのです。「国立交響楽団」のヴァイオリン・セクションのメンバーとなりながら作曲も続け、代表作を次つぎと生み出しましたが、後にはコンセルヴァトーリオ(国立音楽学校)の校長も務めたり、芸術省の音楽局長にも任命されて、メキシコ全体の公的な音楽事業の計画・組織にも携わっていました。現在ではメキシコで毎年開催されている現代音楽祭に「マヌエル・エンリッケス国際現代音楽祭」と、彼の名前が冠せられているほど、20世紀のメキシコを代表する作曲家の一人と公認されています。ここで演奏しているヴァイオリンとピアノのための「組曲」は、彼の若い頃の作品ですが、6曲からなる各曲に伝統も残したまま、現代風な香りの要素も十分に備え持つ作品にまとめられているので、この中の1曲だけを単独に演奏することは不可能な、メキシコのヴァイオリン・レパートリーの代表的な1曲になっています。無論、彼には交響作品もあり、ヴァイオリン協奏曲も第1番と2番がありますが、その第1番は、私の教え子でもあった今日のメキシコを代表するヴァイオリニスト、アドリアン・ユストゥスをソリストにして録音され、CDにもなっています。なおエンリッケスは私に「a Dos」(二人に)というタイトルのヴァイオリンとピアノのための ”20世紀的” ? な作品を献呈してくれています。その世界初演は、すでに数10年前になりますが私が東京文化会館でのリサイタルで行いました。

    Alfonso De Elías  アルフォンソ・デ・エリアス(1902~1984)

     メキシコ国立自治大学には法学部や経済学部と並んで「音楽学部」もあるのです。 それは国立東京大学(東大)に「音楽学部」があることと同義になりますが、日本でそれを想像するのは少々難しいことではないでしょうか?これはメキシコで「音楽」が占める社会的な重要度が、いかに認められているかの証明の一つとも言えるかもしれません。 その学部は通称「音楽学校」とも呼ばれており、コンセルヴァトーリオと並んで、メキシコのプロフェッショナル音楽家の教育と養成の場としての双璧をなしているのです。デ ・エリアスは、メキシコシティー生まれなので、この「音楽学校」で作曲も含めた音楽全般の教育を受けた人ですし、後には、母校で教鞭もとっていました。この「音楽学部」がコヨアカンと呼ばれている市の南部にあり、私もその地区の住人でしたので、もしかしたら、いつか何処かで彼とも出会っていたかも知れませんが、残念ながら、私は彼をこの「悲歌」を通して知るのみなのです。スペイン語のタイトル 「Elegía」 と言う語は、往々にして日本では英語の「エレジー」とも訳されていますが、ここで私は武満徹さんが彼の小品につけた題名「悲歌」を思い出し、それが大変気に入っているので、このメキシコの「Elegía」 も「悲歌」と訳しました。深い悲しみのどん底に沈んだような音楽ですが、中程では明るい、ほのかな光も差し込んだようになるのが救いではないでしょうか? 20世紀の作曲家でありながら、まだロマン派の香りが十分に残る3つの交響曲や、レクイエム、弦楽四重奏曲や合唱曲など、多くの作品が残されています。

     

    Alfredo Carrasco  アルフレド・カラスコ(1875~1945)

     「Adiós」(さようなら)というメキシコでは超有名なピアノの小品があります。つまり「別れの曲」なのですが、このピアノ曲の作曲家がこのアルフレド・カラスコであった事を、私は迂闊にもつい最近まで気付かずにいました。何故なら、この曲は単に「Adiós」ではなく「Adiós de Carrasco」、つまり「カラスコのサヨウナラ」として人びとの間では呼び慣らされているからなのです。私はその「カラスコ」という意味を、どこかの地名ぐらいに思っていたのですが、それがメキシコを代表する作曲家本人の苗字だったとは想像もしていなかったので、それは大きな「失礼千万」だったと恥かしく思ってります。
    ここで演奏している「子守りうた」も、何と深い愛情のこもった曲なのでしょう。
    「さぁ、安心しておネンネしなさいね」と、赤ん坊の寝顔に唄いかけていながら、中程では一転して、何かその日に起こった困った事とか、さらには赤ちゃんの将来にまで心を砕いて思いを馳せているような親の気持ちが伝わって来るようです。こんなに小さな曲にも深い愛が込められている、この作曲家ならではの「人となり」を私は敬愛して止みません。
    彼はまだ後期ロマン派の時代に生まれながら、「メキシコ革命」後に芸術の分野でも大きな花を開かせた「メキシコのナショナリズム」の中を生きた20世紀前半の作曲家として、大いに活躍しました。大変秀でたオルガン奏者でもあったので、メキシコ第2の都会であるグアダラハラの大聖堂(カテドラール)のオルガニストも務めたり、また児童への音楽教育にも熱心であった教育者としても高く評価されています。

    Ricardo Castro リカルド・カストロ(1865~1907)

     カストロがいかに優れたピアニストであったかは、自作のピアノ協奏曲やピアノのための小品の中で彼が駆使している高度なピアノ演奏のテクニックによっても実証されていますが、1885年に行ったワシントンやニューヨークへの演奏旅行では、”天才ピアニストの出現”と、アメリカの新聞に大きく絶賛されて報道されたほどでした。メキシコ国内ではピアノ教育にも熱心で、同世代の作曲家やピアニストたちと「音楽研究所」を創設したり、1895年には「フィルハーモニック・ソサエティー」も組織し、そこではグラズーノフ、シューマン、リスト、チャイコフスキーなど、まさにヨーロッパで同時代を歩む作曲家たちの作品が紹介され、演奏もされていたのです。彼の1902年のリサイタルでは、今日も代表作の一つと数えられている「ワルツ・カプリッチョ」を初演しましたが、何とそれは彼が16歳の時(明治23年)に作曲した曲でした。同年からフランス、ドイツ、ベルギーなどでも演奏活動を続け、1906年にはメキシコへ帰国して、コンセルバトーリオの校長にも就任したのですが、不運にも肺炎にかかってしまい、周囲から大いに惜しまれつつ43歳の若さで他界してしまいました。
     ここで演奏されている「ロマンス」と「メロディー」も、カストロのどの作品にも共通する彼自身の内面から生まれた感情が個性的な和声の転調を使って現され、均衡の取れた音楽となって、幸いながら音符で残された作品なのです。

    Jose Sabre Marroquin ホセ・サブレ・マロキン(1909~1995)

     ポーランド生まれの名ヴァイオリニスト、ヘンリック・シェリングは、1946年にメキシコに帰化してメキシコ人になっていたので、以降は「メキシコ文化大使」として外交官の公式な肩書きも持って20世紀に世界中で活躍し、日本にも多くの彼のファンがいました。がもしも、彼がサブレ・マロキンの親しい友人となっていなければ、マロキンは数百曲にのぼる彼の歌によって所謂ポピュラー音楽界のみでの大作曲家として名前が残されていた事でしょう。
    ところが、シェリングとの出会いによって、世界中の権威あるコンサートホールでのプログラムにも、彼の名前が載るようになったのでした。でもそのシェリングを国際的に有名にしたのも、実は彼がメキシコに住んで居たからこそ共通の友人宅で、あの20世紀のピアノの巨匠、アルトゥール・ルービンシュタインと出会って意気投合し、すぐにブラームスのソナタ全3曲を録音したところ、それに「1955年度フランス・ディスク大賞」が与えられたのがスタートだったのです。人生での誰かとの「偶然な出会い」ほど運命的で、貴重なものは他に何があるでしょうか?
     サブレ・マロキンの名前がクラシック音楽の分野にも残るようになったのは、ここで演奏している「郷愁」と「ゆりかごの歌」のほかにも、あと数曲がシェリングの手も入って彼の愛奏曲として楽譜になって出版されているからでもあります。つまりメキシコには、日本でのようなクラシック音楽とポピュラー音楽の間の高い塀が存在せず、良い音楽は「良い音楽」であり、それはその音楽を聴く人びとにとって心地よかったり、感銘を与えるものであれば「良い音楽」として受け入れられる伝統があるからなのです。メキシコではクラシック音楽のことを文字通り「Buena musica(良い音楽)」と呼ばれており、毎日24時間クラシック音楽のみを放送していたラジオ局は「Buena Musica de Mexico(メキシコの良い音楽)」と言う局名でした。この「郷愁=Añoranza」を知って私も、自分の師でもあったマエストロ・シェリングの選曲に大いに賛同し、彼に感謝している一人なのです。

    黒沼ユリ子 ヴァイオリンYuriko Kuronuma - Violin -

     東京生まれ。8歳よりヴァイオリンを始め鷲見三郎門下に入る。1951年全日本学生音楽コンクール小学生の部で第1位及び文部大臣賞を受賞。その後1956年桐朋学園高校音楽部に入学。同年、日本音楽コンクール第1位及び特賞受賞。1957年W. ロイブナー指揮NHK交響楽団とデビュー。1958年18歳でチェコ政府招待留学生としてプラハ音楽芸術アカデミーへ入学。F.ダニエル教授からの薫陶を受けながらH.シェリングにも師事。在学中にチェコ現代音楽演奏コンクールで第1位受賞。1962年同アカデミーを栄誉賞つき首席で卒業。同年、国際音楽祭「プラハの春」でプラハ交響楽団と共演してヨーロッパ・デビュー。以来、国際的に独奏者として著名なオーケストラや指揮者との共演が活発になり、特に日本の代表的な作曲家たち(林光、三善晃、広瀬量平、間宮芳生、武満徹ほか)による作品の初演も含め、海外での紹介にも力を入れて高く評価される。1971年シカゴ交響楽団と共演してアメリカ・デビュー。1979年広瀬量平作曲のヴァイオリン協奏曲を東京で世界初演し、1981年にはニューヨークのカーネギーホールでもアメリカン・シンフォニーと共演してアメリカ初演も実現。好評を博す。1980年メキシコ市に小さな音楽院「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を開設。弦楽器教育にも力を注ぎ、今日メキシコの代表的なヴァイオリニスト、アドリアン・ユストゥスをはじめ多くの優れた演奏家を世に送り出す。2005年「国際セルバンテス芸術祭」で團伊玖磨のオペラ「夕鶴」の音楽監督をつとめ、メキシコの歌手陣によるメキシコ初演を実現。2008年には日本でも公演し、完璧な日本語と本格的な歌唱での外国人による初上演を日本のオペラ史上に残し、メキシコの声楽界の実力を日本に披露して絶賛される。 チェコ作曲家同盟より「演奏芸術家賞」「スメタナ・メダル」受賞。メキシコ大統領より「アステカの鷲・勲章」叙勲。 外務大臣より「トラテロルコの鷲賞」「音楽演劇評論家賞」「モーツアルト・メダル」なども受賞。日本では「旭日小綬章」叙勲ほか「外務大臣表彰」「厚生大臣・児童福祉文化奨励賞」「国際交流基金・奨励賞」「大同生命・地域研究特別賞」「国際ソロプチミスト・千嘉代子賞」などなども受賞。LP盤レコードはチェコのスプラフォン・レコード、日本のコロムビア、ビクター、ソニーなどへ15枚余を録音。うち3枚が「レコード・アカデミー賞」を受賞。CDにはチェコの名ピアニスト、J.パネンカとの「黒沼ユリ子 チェコ・ヴァイオリン音楽選」がビクターより発売されており、「メキシコ音楽・二つの世紀のはざまで」はクインデチム・レーベルが録音し発売されていたが、それが今回のオフィス・アミーチ盤となり、日本での発売となった。 著書には「アジタート・マ・ノン・トロッポ」(未来社)、「メキシコからの手紙」「メキシコの輝き」(共に岩波新書)、「ドヴォルジャーク その人と音楽・祖国」(冨山房インターナショナル)ほかが高く評価されている。
    なお神奈川県藤沢市の「名誉市民」であり、千葉県御宿町からは「日本メキシコ友好文化大使」の任命も受けている。千葉県御宿町に(一般社団法人)「ヴァイオリンの家・日本メキシコ友好の家」を2016年創設し、文化・芸術による社会の活性化に尽力中。

    ★ 黒沼ユリ子愛用ヴァイオリン: P. O. シュピドレン(プラハ) 1961年

    ヨセフ・オレホフスキ ピアノJozef Olechowski - Piano -

     ポーランド生まれのピアニストで作曲家。少年時代から頭角を現し、ワルシャワのショパン協会主催のコンクールでは2年連続して奨学金を授与され、将来を嘱目されていた。すでに40年以上もメキシコで暮らしながら活躍し、録音された40枚を越すCDにはメキシコの作品も多く含まれているが、その中でも特に注目を集めたのが4枚からなるエルネスト・エロルドゥイのピアノ曲全集であり、また、19世紀から20世紀にかけてのメキシコの作曲家たちによる「最も美しいメキシコのマズルカ集」や「コンサート用メキシコのワルツ集」なども注目を集めた。メキシコを代表する作曲家マヌエル・M・ポンセの室内楽曲を2枚のCDにまとめた録音には、その年度の「演劇音楽評論家ユニオン賞」も授与された。独奏者としても国立交響楽団、メキシコシティー・フィルハーモニー、ハラッパ交響楽団をはじめメキシコ各地のオーケストラと共演を重ね、2003年にはポーランドの代表的作曲家W・ペンデレツキの「ピアノ協奏曲」のメキシコ初演を行い「メキシコの音楽史上に1ページを残す名演奏」と高く評価された。教育者としてもメキシコ各地の音楽学校での青少年の育成にも力を入れ、音楽祭の組織にも参加している。メキシコ全土はもとよりカナダおよびアメリカ合衆国、中南米諸国、ヨーロッパ各地での演奏活動を始め、日本へもすでに黒沼ユリ子とチェロのボジェナ・スラヴィンスカと共に訪日演奏旅行を実現し、好評を博した。
     1990年には社団法人「ポーランド・メキシコ友好協会」を設立し、その理事長も務めている。

    メキシコ・モレロス州の<ヴァイオリンの家>の庭に座る黒沼ユリ子

    ヴァイオリンを弾く人形は、千葉県御宿町にある「黒沼ユリ子のヴァイオリンの家/日本メキシコ友好の家」2階、3階にある「ワタべ・コレクション」より

    (一社)黒沼ユリ子のヴァイオリンの家-日本メキシコ友好の家

    〒299-5106 千葉県夷隅郡御宿町須賀478-2
    Tel. 0470 62 5565
    Mail to : casa.violin.930@gmail.com